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善を見つめることでもなく、
悪を見つめることでもなく、
その間に存在する意味の亀裂の中へと身を委ねること。
そこでは光と重力との休戦によって生まれた、
聖なるものの窪みがある。
天の高みでもなく、地の深みでもなく、
その窪んだ大地の上にとそっと身を横たえること。
どうだ?
天使の声が聞こえてはこないか?
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久々に風邪で寝込んでいる。ボーッと天井を見つめながら、ウィークデーの昼下がりを温もりのあるベッドの中で過ごす。サッシから差し込む午後の木漏れ日。近くの小学校から聞こえてくる子供たちの矯声。遠くの空で鳴り響いているヘリコプターの飛行音。ときおり近所の家の犬が吠え立てる。寝室の天井に小春日和の陽光がキラキラとゆらめいて、子供の頃、カゼで学校を休んだときと寸分も変わらないあの懐かしい香りが周囲の空間を包み込む。もはや風邪を引いている自分の存在さえ消え入ってしまうような、静謐な世界―。
いきなり襲ってきた咳でハッと我に返るオレ。オレはいま、この世にはいなかった。オレは確かにいま、死んでいた。ほんとだ。あの天井を見ていたのは一体誰だったのだろうか?そこでは見つめている者としてのオレという意識は消え失せ、ただ世界だけが即自的に息づいていた。そこには誰が見ているのでも、誰に見られているのでもない無人称の光景があった。主語という主語が、動詞という動詞がすべて消え去り、意味を一切剥奪された、ただあるものだけが「ある」だけの世界。オレはこうした無人の風景のことを女の風景と呼んでいる。
女の風景は大方の場合、取るに足らぬ凡庸な風景であることがほとんどだ。そんなありきたりの風景なものだから、歴史には一切、登場することもなく、社会からも忘れ去られている。しかし、日々の生活に対するアングルをちょっと変えさえすれば、戦場であれ、学校であれ、家庭であれ、女の風景は至るところにいくらでも広がっている。野ざらしにされた戦死者の傍らで風に揺らいでいる野花。歩く者が誰もいない授業中の学校の廊下。真夏の運動場にシンシンと照りつける太陽。トントントンと台所から響いてくる包丁の音。蒸気でコツコツコツと音を立てている鍋ぶた。そうした場所ではいわゆる人間というやつは鳴りを潜めて、ただ出来事だけが在り続けている。いや、もっと言えば出来事さえも起こっていないと言っていいのかもしれない。そこでは無用な言葉はすべて剥ぎ落とされ、たとえそこに時間を刻む時計が置かれていたとしても、カチ、カチ、カチと進む秒針自体が逆に時間の不在を浮き立たせ、いい知れぬ永遠が顔をのぞかせるのだ。理性に取り憑かれた人間たちは、こうした情景を目撃するとあまりの恐怖に吐き気を催すものだが、オレは違う。オレはそこに天使を見る。それも女の天使。いつだってそうだ。