都市は哀しみと笑顔で満ちている。塩気のない涙。笑い皺が決して残らないような、イマージュなき笑いの洪水。都市には、どこもかしこも、CGのような哀しみと笑顔で満ちている。ドラッグ&ペースト。容易いものだ。規格化され涙と笑いと勇気。
これらの哀しみと笑顔の背後には、恐れよ!という命令と、楽しめ!という脅迫を絶えずプログラムする無意識のハードウェアが存在している。m-otherならぬ、f-other-operation。それはfunction(関数)としての国家であり、force(権力)としての他者であり、fool(愚者)としての愛である。

なぜ国家が、他者が、そして愛が、無意識のハードウェアなのか――。それは、国家がますます想像的なものに変質し、他者の欲望を欲望する欲望が一段と均質化し、愛の喪失がより声高らかに謳い上げられるからである。これら三者の総意のもとに資本主義が発展してきたことをいまや思想は知っている。そして、この資本の運動が、それ自身、社会的現実に与える影響には一切関心を持たないということも思想はよく知っている。いまや、資本によって、唯我的で投機的な舞踏が全階層に開かれていることも思想は知っているのだ。さらには、横溢する資本の諸力が、純粋に客体的でシステマティックな匿名性の暴力として働くことも思想は知っている。しかし、思想は資本主義に内在するこの無意識的な横暴に立ち向かう術を持たない。

例えば、敵について考えてみるといい。敵は存在しない。敵は発明されなければいけない。発明され、生産され続けなければいけない。何のために?共同体の愛のために?民族の自立のために?それとも、無意識機械の効率をあげるために?1000人殺すことによって1500人を生かすこと。差し引き500人のためのサバイバルゲーム。それが古来よりの掟でもあったといわんばかりに、宇宙のコントロールはそうやって為されてきたのだと言わんばかりに、無意識は画策する。

敵が発明されるべきものであるのならば、当然、敵の在り方には流行廃りがある。一度、流行が過ぎれば、また新たな敵の定義がはじき出される。その定義が確定すれば、機械はまた殺せ!と号令をかけるのだ。文明はそうすることで、敵の殲滅を糧として成長してきた。古くはバルバロイからムーア人。ユダヤ人は今さら言うに及ばず、新しいところでは、イスラム原理主義者から北朝鮮にいたるまで。もし、彼らが敵であるのならば、一体、誰の敵だというのか。いや、この際誰が敵かなどということは問題ではない。敵の敵は味方というだけの否認に基づく脆い連帯が重要なのだ。否認はいたるところで形成され、軽薄な同盟による帝国の軍隊だけが、あの堅い靴底を鳴り響かせて行進する。

f-other-operationのプログラムは単純な二進法的演算からなる。喰うか喰われるか。殺らなければ殺られる――。パラノイアックな悲鳴と神経症的な苦痛のモンタージュ。ヒッチコック張りの効果音とカメラワークが、無数のサイコ野郎を生産するために動員される。すでに物語の時代は過ぎ去っている。無意識の機械は言葉ではなく、光と音の記号でわたしたちのサブリミナルに働きかけるのだ。映像が、音楽が、そして、映画さえもがそこに加担する。匿名性の顔貌に一度に大量複製されていく恐怖と戦慄のこわばり。自爆テロ。ノドンミサイル。いまや時代は複製芸術ならぬ複製される情動の時代に突入した。ドラッグ&ペースト。容易いものだ。規格化された涙と笑いと勇気。そして、バスルームのお色気を少々。

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